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断捨離とは

断捨離とは?

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断つ・捨てる・離れる

すっかりブームも落ち着き、一般語としての地位を確立した「断捨離」ですが、新語・流行語大賞にノミネートされたのは10年ほど前の2010年のことです。
以降、現在に至るまで様々な関連書籍が出版されています。

すでにお馴染みの概念である「断捨離」ですが、もとはヨガの思想に由来するとのこと。
どのように説明されているかというと…

(以下Wikipediaより抜粋)
断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

断:入ってくるいらない物を断つ。
捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
離:物への執着から離れる。
(抜粋おわり)

なるほど、「断」「捨」「離」の3つのプロセスで構成されているようですね。
しかし、なぜこの「断捨離」の概念が、ここまで広く受け入れられるようになったのでしょうか?
そもそも「断捨離」をすることで、なにか良いことがあるのでしょうか?

モノは暮らしを豊かにする?

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幸せになるために買ったモノを捨てるとは

「断捨離」が提唱するメッセージは、周知のとおり、「モノを減らすと、心が潤い、幸せを感じる」というものです。
あれ?ちょっと待ってください。これまで、両親や友達、同僚やメディアがそんなことを言ったのを聞いたことがありますか?

私たちは日常生活の中で、意識・無意識にかかわらず、以下のようなメッセージを浴び続けています。

「これを買えば、もっと幸せになります」
「これを使えば、とっても魅力的になれます」
「これを所有すれば、さらに便利な生活ができます」

雑誌やコマーシャル、他人の新しい持ち物、休日のショッピングモールへのお出かけなど、あらゆるところで目にする「新しく発売されたモノ」「まだ自分が持っていないモノ」のすべてが、私たちの所有欲を刺激するようにできています。

経済の発展が生産・消費の終わりなき繰り返しによって成り立っているこの社会では当然のことです。
モノを買うために稼ぎ、稼ぐために人はモノを作って売るのですから、人々がモノを買わなくなったら企業は困るでしょう。ですから、モノは本来の実力以上に魅力的に、あたかも人生に不可欠かのように宣伝されます。

しかし、部屋の中を見回してみるとどうでしょうか。
すでにモノは十分すぎるほど足りています。
本当になくてはならない、人生にとって不足するモノなど、何一つ思い浮かびません。

所有は成功の証?

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モノが溢れる状態が私たちの「普通」になっている

つまり、これまでの社会通念では所有=贅沢という図式が成り立っていました。
必要なモノが市場に出回らず、十分に持つことができなかった、戦中戦後の時代を生き抜いてきた方々にとっては特にそうでしょう。

しかし現代において、日用消耗品から高級ブランド品まで、お金を出しても買えないという状況はあまり想定されてきませんでした。

低価格かつ必要な水準を満たした日用品、衣類、家具家電の類が、急速な経済の高度成長と機械工業の自動生産化によって、一般的な家庭の所得で十分に手に入る時代がこれまで続いてきました。
消費経済の負の側面を考察するのは別の機会にするとして、我々現代人は多かれ少なかれ、モノがもたらす恩恵である利便性、快適性を長らく享受してきたのです。

いまや、毎日使うもので、家電を除き100円ショップで揃わないものは殆どありません。
しかし、100円ショップでいくら沢山モノを買ったからと言って、心が満たされるようなことがあるでしょうか。

いえ、もしも買うモノが最新の家電や、2台目の高級車、希少品のブランドバッグであればどうでしょうか?

想像してください。
購入を計画し、対象を比較検討し、お金を貯めて(もしくは後払いで)、いよいよそれを買う日がやってきました。
ようやくそれが自分のモノになります。太陽は輝き、鳥はうれしそうにさえずり、風があなたを祝福しているようです。あなたはそのモノを持っていないというストレスから今日で解放され、まるで天に上るような心持ちです。

え?ちょっと待ってください。本当ですか?

大金を費やしたからには、それをしっかり管理しなければなりません。
新しいモノに附随して、買う前に費やしたお金以外の労力・コストと同等の管理責任が、あなたの元にやってくるのです。

モノはいつか汚れ、老朽化し、壊れたり陳腐化したりします。
モノを所有するということは、そのようなモノの特質と常に向き合っていかなければならないことを意味するのです。